☆陶房日向のルーツ
群馬県安中市の山中に築かれた自性寺焼の職人初代(須藤勇次郎)が明治時代に益子町に移り開窯しました。その後二代目(須藤安太郎)の時代には多くの職人を抱える有数の窯元となりました。
人間国宝の濱田庄司先生が益子町道祖土(サヤド:現在の益子参考館の場所)に開窯し、益子焼は民藝運動の高まりにより雑器から民衆的工芸の美を見出され変貌していきました。三代目(須藤武雄)が、先生の御子息(濱田篤哉氏)と同級生であったご縁から師事を仰ぎ、お誘いで工房を筋向いに移しました。
先生の確立した益子焼の技法と伝統を忠実に受け継いだ民藝陶器にたずさわって参りました。
☆陶房日向のやきもの
益子焼の真髄ともいえるのが柿釉(かきゆ・かきぐすり)と呼ばれる益子産の茶色い芦沼石という釉薬です。この柿釉をベースに現代にマッチした焼き物作りを四代目(田上勇)、五代目(田上宗利)がしております。
☆The roots of Hinata-gama *Gama(kama<wear>)
mean kiln also we use as a trading name by using gama ending
Our ancestor (First generation Sudo Yujiro) launched his own pottery (Tobo hinata) at Sayado Mashiko machi at Meiji era (1868) who used to work as a craftsman of
Jishoji-yaki in Gunma prefecture. At the time of Second generation of Yasutaro, Tobo hinata became one of the biggest potteries and had a lot of craftsmen.
Also, around this time Hamada Shoji (one of the most famous pottery artist, and Japanese human national treasure) launched his own pottery at Mashiko. Thanks to his
effort, Mashiko yaki had changed from an ordinary practical item, to an artifact. The third generation Sudo Takeo learned from Hamada Shoji. The son of Hamada and Takeo was classmates and Hamada
had known Takeo since he was childhood, and Hamada helped to make his new private kiln in front of Hamada house. By taking advice from Hamada, Takeo made a bunch of masterpieces.
Nowadays Fourth generation Tagami Isamu and Fifth generation Tagami Munetoshi, his sister Akiko, they are creating traditional Mashiko yaki.
日向窯 三代目 須藤武雄の著書 「益子の土に生きる」抜粋
砂糖蜜の甘さ
益子の父とも母ともいうべき、浜田庄司先生は、私の幼い頃からごく親しくさせて頂いておりました。
といいますのも、私は浜田庄司先生の三男の篤哉(あつや)さんと学校がいっしょでしたし、家も隣組で、いつも遊んでいました。
よく、学校の帰りなどには、浜田庄司先生のお宅へ寄らせてもらいました。そうすると、戦争中なので、何もなかった頃でしたが、篤哉さんと私の口に砂糖蜜を入れてくださいました。
「こんなにおいしいものはほかにないなあ。おいしいなあ。」
と、子供後ごろに焼きついています。
とにかく、日本を代表する陶芸家であるという思いよりは、篤哉さんのお父さんというとらえ方で、ごく自然にお近づきをさせていただいていました。
事実、先生と奥様は、私の幼い頃に篤哉さんと遊んでいる中から、その生活像を心にやきつけて育つことが出来たわけで、これほど私にとって幸せなことはありません。
益子に生まれ、益子に育ち、益子の土とともに、生かしていただいてる現在の私にとりましては、これ以上の師はないと信じているわけです。
今、思い出しましても、浜田庄司先生は、その作品が示していますように、とても大きい人間で、悠々と、温かく、誰とでも心からとけあって親しくおつきあいをされる方でした。
私は、いつも、
「浜田庄司先生は、ご自分の焼物そのものの中に全人格をにじみだされている」
と思っています。
益子の土は決してよい土ではありません。二流の土です。この二流の土を使って、一流の作品を
ゆっくり作り上げていくのが、浜田庄司先生のお考えでした。そして、そのとおりにされたわけで、
私たち益子に生きるものは、先生のこの思想を受け継ぎ、さらに発展させていかなくてはならないと思いつづけているわけです。